自分より上の人間が下に落ちることを喜ぶんじゃない。

心理

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。

福沢諭吉の「学問のすゝめ」の冒頭の一文にはこんなことが書いています。この一文は、アメリカ独立宣言の冒頭部分を受けて書かれているものであり、人間は生まれながら平等であると言われているよね、ということです。

ちなみにこの「学問のすゝめ」は、続きがあって、それを見ると以下のようになっています。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、萬人 皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、萬物の霊たる身と心の働を以て天地の間にあるよろずの物を資り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互い に人の妨をなさずして各安樂にこの世を渡らしめ給ふの趣意なり。されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、 富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と泥の相違あるに似たるは何ぞや。

これを見ると、「人間はみな平等だって言われてるのに、この世の中は頭いい人も悪い人もいるし、お金持ちも貧乏もいるし、身分が高い人も低い人もいるのはなんで?」となっています。まぁ、題名からも分かるように、ここから学ぶことは大事ですよ、という話に入っていくわけです。

ここでいう学びってのは別に学校でやるものだけではないですよ、とも言ってます。そこからは国家とか政治とかそういった話に入っていくのですが、そこからは本でも読んでください笑。

意外と現代に通じる自己啓発本になっている気がしています。

上の人間と下の人間

さて、「学問のすゝめ」でもあるように、現代社会は平等とは言われているものの、身分や富という点では差があります。会社であれば、上司がいて部下がいて、という形になりますし、周りの人を見れば、自分よりお金を持っている人もいるし、逆に自分よりも貧乏な人もいます。お金や身分で、上・下と分けてしまうのはどうかという気もしますが、上の人間もいれば、下の人間もいるわけです。

身分なり、富について上下の差ができてしまうのは今更どうしようともできないです。もちろん将来的に変えていくことは可能ですし、そのために学びが重要になるのですが、少なくとも現時点でそうなっているものについては変えようがないです。

ただ、この関係は変えていくことが出来ます。会社で上司・部下の関係だった人が逆になったり、あるいは貧乏であった人がお金を稼ぐようになって、お金持ちになるということはいくらでもあります。下の人間であってもその本人の努力次第で変えていく可能性はいくらでもあります。

本人だけではどうしようもないこともある

とはいっても、本人の努力がいかに優れていようとも、なんともできないこともあるでしょう。会社組織によってはどれだけがんばっても上司部下の関係がひっくり返ることはないところ、例えば年功序列型の会社だってあるでしょうし、自分がどれだけ稼いでも、それを遥かに凌ぐぐらいのお金を持っている人もいるでしょう。

それについては本人の努力だけではどうにもならないことも出てきます。そこに関してはあきらめも大事かなと思ってます。

上の人間が落っこちてくる時もある

さて、そろそろ本題へ。自分が下の人間である場合、先ほどまで見たように、本人の努力で相手より上に上がるという方法もあります。でもそれができず、どうしようもない時もあります。でも、それとは違うこともあります。それは上の人間が落っこちてくる場合です。

要するに自分が何かをしたわけではないけど、上の人間が落っこちてきて、相対的に自分と同等であったり、自分より下になることがあるわけです。

上の人間が落っこちてくるのは良いこと?

さて、ではそういった上の人間が落っこちてくるのは良いことなのでしょうか?例えば、その人がとてつもなくいやみな人間であったり、何事も人のせいにするような人間であれば、そういた人が落っこちていくのを「ざまあみろ!」という気持ちでみるのも仕方ないのかなという気はしてます。でも、それって本質的にはそんなに面白いことではないし、上の人間が自分たちより下になる、あるいは同等レベルに落っこちるのをみて喜んでも自分に取っては何も良いことではないはずです。

これがお金を持っている人が一気にお金を失っていくのも同様な気がしています。そりゃ人間性のよくない人が不幸になるのは自業自得かなぁとは思うかもしれないですが、それだけです。別に喜んだところで何も意味がないです。もっといえば、自分よりも上の人間を下に下げることもほとんど意味ないですし、落ちていく様子を楽しむのは趣味が悪いという感じです。

上の人間が落ちていくのを楽しむ社会

とは言いつつも、個人的に感じるのは上の人間が落ちていく様子を楽しむ雰囲気というのが世の中にはあるんじゃないのかなと思っています。

例えば、「公務員の給料を下げろ」という話。もちろん諸外国に比べて日本の公務員給料が高いのは事実ですが、それを下げろという意見の中に、「あいつら自分より上だから気に食わない。さっさと落とそうぜ!」という気持ちがあるように感じています。

また、大手企業の不祥事をみても、「あいつら俺らより金貰っているのはひどい。もっと下げろ。」というようなものも感じますし、芸能人の不祥事なんかにも同じようなものを感じてしまいます。

上の人間をねたむ社会は健全じゃないはず

結局、これらってねたみ・恨みの社会二つながっていくような気がするんですよね。本当に大事なのは、ねたみや恨みなどの負の感情ではなく、「もっとこうなろう!」とか「こうしてやろう!」という前向きな感情で出来ている社会の方がいいですよね。

先ほどの公務員の例でいえば、「公務員の給料を下げろ!」ではなくて、「公務員並み、あるいは公務員以上に稼げる仕事をふやそうぜ!」の方が良い社会です。そちらに力を注いだ方がプラスになるでしょう。

相手の足を引っ張るような減点方式ではなく、良いところを上げていく加点方式の方が良い社会になりますよね。

そもそも人と比較するのってどうなの?

で、さらに言えば、「そもそも他人と自分とを比べること自体どうなの?」という気がしてます。比較するのは科学的なものについては大事なことですが、人間社会で比較しても良いことはないです。しかも、比較する時はたいてい自分より上の人と比較してしまいがちで、「あの人は時間があっていいなぁ。」とか「お金持ちでいいなぁ」とか自分にないものを求めてしまう傾向があります。これをしたところで、良いことってあんまりないんですよね。そもそも一人一人違う訳で、ある点で良いこともあれば別の点では悪いこともあるわけです。良いと思うところだけで比較しても正直意味ないんです。

結局のところ、ねたみや恨みというのも他人との比較から始まっている気がするんですよね。「あいつは自分より○○だから」のようなところから自分より良い部分を見てしまってねたみにつながる。実際は、ある点で自分より相手の方が上でも別の点では下なものも多いので、相手の立場になったら、自分の方が良かったとなることも多いです。

いずれにしても、これらは他人との比較から始まってしまいます。他人は他人、自分は自分と思えば、相手が上だろうが気にならないですし、落ちていこうが何しようがそれもどうでもよくなります。

結局、他人と比べない、自分は自分として生きていく方が色々と楽なんです。個人的にもそう考えることでだいぶ気楽に生きていけてます。その方がより楽しい社会になると思いますね。

コメント

  1. […] そのあたりはこちらも読んでいただくとして。 自分より上の人間が下に落ちることを喜ぶんじゃない。 […]

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